涼宮ハルヒのK点

2011-07-23 20:22


「涼宮ハルヒの憂鬱」は、セカイ系と呼ばれる物語形式への反論と考えられます。
「涼宮ハルヒの憂鬱」が達成した成果をまとめ、最後に少しだけ感想を書きたいと思います。
ネタバレありですが、これを読んでも作品への興味が減ることはないと思います。



まとめ


背景:涼宮ハルヒ以前


「新世紀エヴァンゲリオン」を初めとするセカイ系の物語はこう主張していました。
個人的な苦悩が解決すれば、世界的な危機も解決する。解決する危機の内容は聖俗(内心と実利)を問わない。


アニメ第一期


セカイ系の主張が成立するのは、苦悩する個人が一神教の絶対神である場合だけです。
物語の観客の中に絶対神はいないので、観客にとってセカイ系の主張は成立しません。それなのに、セカイ系の主張に意味があると誤って信じる観客がいます。
いっぽう、物語の作中人物には絶対神が存在しても構いません。絶対神である作中人物にとっては、セカイ系の主張が成立し得ます。
つまり、観客にとってセカイ系の主張が成立するためには「観客=作中人物=絶対神」というとんでもない状況が必要だったのです。
「涼宮ハルヒの憂鬱」は、このとんでもない状況をパロディとして描き、セカイ系の限界を明らかにしてくれました。


アニメ第二期


アニメ第二期は「絶対神に、真の力を自覚させたらまずい!」というサスペンスが興味の中心です。
ここでは「全知全能である絶対神が、不完全な世界を作るはずがない」という論点が問題になっています。
「不完全」というのは人間の認識作用によるものです。不完全を認識した人間は、改善や回避をしようと考えます。これが自由意思の働きであり、自由意思が働くには「完全」と「不完全」の落差が必要です。そして大部分のエンタメは、自由意思の存在を肯定します。
では、なぜ絶対神に真の力を自覚させたらまずいのでしょうか?
絶対神は全知全能なので、真の実力を発揮すれば世界を「完全な状態」にすることができます。「不完全」は消滅します。
しかし、「完全」と「不完全」の落差が無ければ、人間は何かを意図することはできません。これは自由意思の危機なので、エンタメとしては回避する必要があります。
アニメ第二期は「絶対神の存在によって、自由意思が失われる哲学的危機」を回避するコメディと考えられます。


映画「涼宮ハルヒの消失」


「絶対神に介入することが出来る人間」の存在が強調されています。
その人間は神の計画によって存在しているのではなく、あくまで絶対神とは独立した人格として描写されています。
素直なエンタメに仕上がっています。



感想


キリスト教やエンタメのロジックをトレースするだけじゃ面白くない!
観客の状況を指摘・刺激するのが面白い作品だ!

ということで、自分にとってはアニメ第一期だけが面白かったです。これは必見!
アニメ第二期と映画は、普通のエンタメ的クオリティでした。

ちょっと気になるのが、シリーズが進むにつれて神学的には退行しているところです……。


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