自由という戦闘教義
2011-05-05 14:37
「フーコー 生権力と統治性」(中村元・河出書房新社)という本を読みました。
近代文学は、自由主義の権力が持つ哲学的ねじれを合理化する説明体系であることがわかりました。
そこで、自由主義と近代文学の関係をまとめてみました。
自由主義の権力観
ミシェル・フーコーは、古典的自由主義の政治権力を「生権力」と呼びました。
生権力は、被支配者が行動の主体であることを要求する権力です。
これを採用した自由主義諸国は、「被支配者は客体」と考える重商主義・ファシズム諸国に勝利しました。
生権力は政治経済・軍事的に優れています。
私有財産を主体的に処分できる社会は経済が活発になるし、主体的に祖国を愛する兵士は死ぬまで戦うのです。
しかし、生権力は哲学的に矛盾しています。
- 主体性とは他に影響を与える能力のことである。
- 影響力を行使できる者は支配者である。
- ならば、被支配者は主体であり得ない。
「強くなれないカス野郎は、この俺が許さん!」「主役の定義はともかく、みんなが主役」という奇妙な状況です。
現実の社会では「自由な取引には、独占禁止法の強制が必要」といった表現になります。
この矛盾にもかかわらず、自由主義の政策立案者は被支配者の主体性を本気で要求します。レトリックの問題ではありません。
被支配者には主体「であるかのように」思ってもらえばいいとする立場では、背後に別の権力観を隠し持っているということになります。
その「別の権力観」では、他の自由主義諸国に負けてしまいます。政治経済・軍事的に!
支配者の要求を受け、被支配者は「私は主体である」という説明をするよう追い詰められます。この説明のお手伝いをするのが、近代文学の目的です。
具体的には、以下の情報の整合性を取るような説明を編み出せばよいということになります。
- 「被支配者は主体である」 (subjectの訳語は、臣民にして主体!)
- 「主体性とは他に影響を与える能力である」
- 目の前にある、政治経済的な貧しい現実
この問題を解くためには、主体が影響を与えるものを、精神的な対象に限定すればよいです。
対象の分別基準は、キリスト教がユダヤ教から独立したときのものと同じです。
- (a)近代文学が操作する対象
- 観察の切り口
- 情緒
- 内面的な価値選択の自由
- 自分の思想に対する確信と不安
- (b)近代文学が操作しない対象
- 政治経済
- 制度の裏付けがある法
- 証明可能な因果関係
上記(a)だけを扱っていれば近代文学と呼べるでしょう。 例「ゴドーを待ちながら」
上記(b)だけを扱っていれば古典文学・古典主義文学と呼べるでしょう。 例
「調停裁判」
しかし、ほとんどの文学は(a)(b)両方を扱っています。これは何でしょうか。
ここには、近代文学と古典主義文学が混在していると思います。
モチーフとして(a)(b)両方を扱う作品の場合、主目的によって近代文学と古典主義文学を区別しようと思います。
(a)を主目的としている場合、その作品は近代文学です。
(b)を主目的としている場合、その作品は古典主義文学です。
目的といっても内心の事柄であるため、最終的には他人がうかがい知ることはできません。近代文学は自由主義を通じてキリスト教の影響を受けているため、判別の基準もキリスト教的になります。
近代文学とエンタメの違い
さて、私はエンタメ後遺症に悩んでいるので、リハビリの意味で近代文学もエンタメとの距離で考えてみようと思います。
とりあえず、私なりにエンタメの定義をしておきましょう。
エンタメとは、特定の観客にとって認識能力を維持または縮小する作品である。
この定義では、自由主義の優位が確立した後に書かれた古典主義文学はエンタメに属します。
私は「歴史は進歩する=芸術史も進歩する」という説を採ります。このため、すでに無効となった権力観を前提とする古典主義文学は、認識を縮小するものということになります。
(『近代文学でさえあれば、駄作もオイディプス王に勝てるのか?』という問題は、ここでは無視します。
完成度が同じくらいの文学が2つあったとして……と考えてください。)
(b)を主目的とする古典主義文学がエンタメであるかどうかについては、もう少し検討が必要でしょう。
ここで論じている作者・読者の前提条件を思い出してみてください。
前提条件
- 支配者から「もっと主体的になれ」と迫られている被支配者
- 色男ではなく、金も力も無い
- 18世紀~20世紀前半の人なので、仮想現実は意識できない
彼が採りうる作戦は以下の2通りです。
- 政治経済的な現実に左右されない価値を構築する
- 政治経済的な現実に、真っ向勝負=同種の能力のぶつけあいで挑む
前者の作戦をやれば、被支配者でも「私は主体だ」と主張することができます。
認識パターン拡張の可能性があるため、こういう作品はエンタメではありません。
もちろん妄想に終わる危険性は強いですが、妄想か否かを事前に判断することはできません。
こちらの強みは、認識パターンの更新を通して、現状の政治経済を更新できる可能性があることです。
(a)を直接の目的として、間接的に(b)が良くなることは近代文学の目的に反していないといえるでしょう。
また、彼は大いに甲斐性を上げるので、(b)の意味でも主体ということになります。
ただし(b)の領域がハッピーエンドであることは、近代文学の必須条件ではありません。
後者の有効性は前提条件によって否定されます。
敗北が予期できるのに、認識パターンを古典的な範囲に縮小させています。これはエンタメです。
だいたい政治経済的現実を直接いじると、甲斐性無しであることがバレてしまいます。
甲斐性無しが甲斐性で勝負すると主体性を主張できないので、この点でも近代文学の目的に反します。
議論の有効範囲
この議論の有効範囲は「ブルボン朝フランスで古典主義が花盛り~第二次世界大戦終了」くらいまでです。
古いほうでは、中世の騎士物語やキリスト受難劇などは射程外です。
新しいほうでは、小説「1984年」(1949年刊)や、映画「マトリックス」(1999年公開)は射程外です。
文化的には、キリスト教由来の政治用語が定着していない世界は射程外です。
つまり、次のような前提がある場合だけに通用するお話です。
- 自由は認識を拡張する
- 自由を追求する近代文学は、認識を拡張する
- 近代文学でないものはエンタメでである
- エンタメは自由を追求しないので、認識を維持または縮小するだけ
この前提は、どう考えても歴史に属します。
歴史を論じるのも無意味ではありませんが、私にとって近代文学は「べからず集」の価値しか持たないことがハッキリしてきました。
次の問題
「自由は認識を縮小する」
コメントする